どう写っているかではなく、何を写したかだ
今月号のアサヒカメラが面白いと言われたので、久しぶりに買って読んでいる。と言っても紙媒体の雑誌でなく、密林のkindleだけどね。
今年になってからアサヒカメラも遅まきながら電子書籍化した。他の雑誌同様、何れ資源ごみに送られる末路となるような雑誌系はもうすべて電子書籍で買うことにしている。
さて、面白い記事というのは、流行りのインスタ映えに一石を投じる特集記事のことある。詳しい内容は同誌を読んでもらえば良いので割愛するが、風景写真家のヨネ先生が昨今のレタッチブームに切り込んで、痛烈にその過剰気味な風潮に吠えているのだ。
ヨネ先生自身のレタッチ例はまあともかくw、おおよそオッサンカメラマンとしては同意である。写真が消費されるインターネット時代において、他より目立つべく色を盛る時流が生み出されたわけだが、それが流行りだした時点で「どこかで見た似たようなもの」の中に埋没していることに皆気が付かないのである。
何が写っているかではなく、どう写っているかに..さらに言えば何で撮ったかにw..にこだわり過ぎているため、表現者の意味合いが絵画の世界に近づいてしまっているのだ。無から有を生み出す絵画の世界と、目の前の光景を焼き付ける写真とでは表現の意味が異なる。写真はあくまで記録、またはその延長にあるものだろう。
記憶色が好まれる傾向は今に始まったわけではない..フィルムにも色を強調するVelviaやエクタのE100VSなどあったし..が、それでもそこまで過剰な色盛りでそんなふうに見えないでしょ、という一線はあったのだ。大体、レタッチであれやこれやいじくり回すのであれば、今どきのカメラやレンズならどこのメーカーの製品を使っても結果は同じだし。
などと書くとそんなものは個人の自由だと言われそうだが、それはまったくその通り。それどころか仕事で撮る写真ならレタッチは当たり前で、色をいじるどころかそこにあったものを消す、無かったものを付け足す作業まで普通に行っているからねw
色あせつつある深い緑の林縁に朝日が差し込む。晩秋のこの時期、レタッチしようにもそもそも田舎の山野に色は少ない。
フィルム時代から写真を撮ってきているカメラマンの中には、過剰なレタッチを毛嫌いする傾向が強い人達が多いのは事実だ。それはアナログからデジタルに変わる端境期にもよく似たものなので、知らない、できないという各個の事情あれど、自然に何れ淘汰されるか、鳴りを潜めるだろう。
かたやデジタルで育ったカメラマンにとって、PCで行うレタッチは意識としてスタンダードなものだ。デジタル暗室が如きものに例えるような、今までできなかったことができるようになったという話の類ではなく、最初から撮った後のフローが用意されているのだから。
ただ、古い昭和のオッサンカメラマンとして、インスタ映えに流されるレタッチ隆盛のブームに迎合する気にはならないね。そしてそれもまた個人の自由に他ならないので、まあどっちもどっちということでオチをつけようかw