カテゴリ : 独り言

portfolio

くろレタス

2016/7/16

仕事で朝が早い時など、よく食べているのがセブンイレブンのシャキシャキレタスサンド。そのはみ出さんばかりに具材に使われているのが、実は我が赤城高原産のレタス、通称「くろレタス」である。

今までは裏方的な扱いだったが、久呂保レタス部会の面々の活躍?で、最近になってその辺りを前面に押し出すようなプロモーションを始めており、今テレビで流れているCMもその一手のようである。

20160716

野菜などどこで食っても一緒だと、ここに住むまではそう思っていたが、採れたてはまったく違うことを知ることとなる。まさに言葉通り新鮮ということになるのだが、瑞々しさからくるシャキシャキ感など、一度冷蔵庫に入れてしまったらもう終わりである。

ご多分に漏れず我が家でも庭先で菜園をやっているが、隣近所あらゆるところから野菜が手に入る、と言うか勝手にやって来るので、すっかり野菜を買うという行為が無くなっている。

到底我が家では消費しきれないので、タイミングが合えばそれをまたあちこち配ることになるのだが、時間が空いてしまうと結局買うのと変わらない状態になってしまうので、そこはまた何とももったいないことになってしまうのである。

カテゴリ:独り言|タグ:

水の田

2016/6/26

また田んぼかと思われるかもしれないが、日頃からレタス畑や蒟蒻畑に囲まれて生活している身にとって、青々した稲が風になびく姿は新鮮なのである。

作物の生育に水が必要であることは、その量に関わらず変わりのないことだが、水田ほど水の豊かさを象徴する人工的な農地空間はないだろう。

もうこの時期は田植えの頃ほど水を必要とはしないが、水の田と書いて水田であることに変わりはなく、その人為的な湿地帯に命を宿す生きものもたくさんいるのだ。

そう、ご先祖様が稲作を始めて以来二千有余年、水田は日本の自然の一部となって、命のゆりかごの役目を果たしてきている。

20160626

南まで下れば関東にもこれだけ広大な水田地帯がある。

稲作は水を上から下へ順に流す必用があるため、歴史的に谷戸の傾斜地が利用されてきた..山間の棚田などがまさにその名残だ..が、近代農業として灌漑など用水が発達してからは平野部にその舞台が移り、格段に生産性が上がってきた。

主には政治的な理由で自給率の低い日本ではあるが、米が主食であるかぎり、水田は人にとっても無くてはならないウェットランドなのである。

カテゴリ:独り言|タグ:

山手線内で定位置ともいうべきドア近くのスペースに立ち、車窓を流れるメトロポリタンな眺めを流し見ていると、背後でヒソヒソとうら若きガールズの笑い声が聞こえてくる。

二駅同じ状況が続いたのでやおら背後を振り返ると、5人のJKが目に入ったが、途端にあちらは含み笑いをしつつ視線を外す。む、これは明らかにこの田舎者を笑っているなと我が身を振り返るも、まあこれといって思い当たるフシはない。

箸が転んでもおかしい年頃、自分にも経験があるよなぁと懐深くその場はそれでやり過ごしたのだが、夜、宿に入って脱いだシャツを見て昼間の笑劇に我納得セリ。先月某量販店で買ってきた安物のシャツの襟に、タグが付きっぱなしであった..

今思えば、注文取りに来た飲み屋のオネイサンも、どことなく笑顔が過剰だったよなぁ。懐が深いどころか思慮が浅かったな(苦笑)。

20160611

赤城のバックカントリーから東京ベイエリアまで、標高700mから海抜0mへ。広大な関東平野を百数十km移動の果てなので、その数字ほどの高度差を感じることはない。

ただ、大都会にひしめく構造物や建築物などどれひとつとっても、なかなかフォトジェニックに目に映る。

その昔、バブル期に東京で活動していた時期があるのだが、その時には写真に撮りたいなどと思ったことはついぞなかった。それが今目の前の光景にそのように感じるということは、歳を取ったのか感性が変わったのか。

時々はこんな景色にレンズを向けてみるのも悪くはないな、というのは正直なところかな。

カテゴリ:独り言

この連休前より、合間を見てチマチマWindowsアプリ..正確にはサンプルコードだけど..を開発中である。

フリーになってしばらくはVB6(時代が判るというものだね)、その後はDelphiでObject Pascalをやっていたが、Microsoftが.NETに力を入れ出してからはASPが主流であった。

インターネットとスマホ台頭により、近年はエンタープライズ系よりもスマートデバイス向けやWebアプリの開発にシフトし、JavaにObjective-C、それにPHPばかりであったが、久しぶりにVisual Studioを起動してC#でゴリゴリコードを書く日々である。

WPFだと未だにWebBrowserコントロールがIE7相当というのには辟易するが、多少の制限はあるものの、Visual Studioの最新版が無料で使えるというのは、時代が変わったものだと感心しきりである。もっとも、XCODEもAndroid Studioも無料配布なので、天下のMicrosoftのビジネスモデル自体、もう時代遅れなのだ。

余談だが、私はサラリーマン時代はオフィスコンピュータ(通称オフコン)のプログラマー兼システムエンジニアであった。まだパーソナルコンピュータ(通称パソコン)がホビー用途で、NECがPC-8801..PC-98ではないぞ!..を発売していた頃の話である。当時はマイナーな言語を除けばBASICやCOBOLが主流であり、ご多分に漏れず当方もコボラーだったのである。

就職して最初の頃のコンピュータの記憶装置はフロッピーディスク..ドクター中松が発明したと主張しているのは業界では有名..であった。8インチサイズで容量1MBと聞けば、今どきの若い人には信じられない話だろうが、その1MBの中に実行形式のプログラムと入るだけのデータを記録していたのである。

今この記事を書きながら、すぐ脇で映像データの定期バックアップが進行中だが、バックアップ先のHDDは1台4TBである。前述の8インチフロッピーディスクに置き換えると約400万枚と同等であり、それはまさに隔世の感ありだ。

20160506

今朝はヘイズもなく久しぶりに上越国境がクリアに望めた。稜線部の谷筋の残雪だけなら梅雨時かと見紛うほどだ。

カテゴリ:独り言|タグ:

20160423

20160423b

海無し県に住む上州人にとって、海は非日常の景色。

広大で果てしなく、生命あふれる水瓶であり、命生れ出づる源でもある、畏れるべき巨大な水たまりだ。

人は海へ漕ぎ出し、海を渡り、陸へ帰り、時に海へ還る。

水平線を知らない上州人にとって、海は非日常の世界。

カテゴリ:独り言
20160418

人は一人では生きられないし、決して一人ではない。思いを共有できるなら、皆で協力しあってこの難局を乗り切ろう。寄り添う気持ちを強く持ち、諦めることなく未来を見据えよう。

カテゴリ:独り言|タグ:

熊本で大地震

2016/4/15

昨晩、熊本でマグニチュードのわりに大きな地震が起きた。震源が浅い分、震度だけ見ると東日本大震災と変わらない数字となったようである。被害も広範囲というよりは局所的な感じがして、東日本大震災とはかなり雰囲気の異なる地震である。九州は火山は多いがそんなに地震の多いイメージがなかっただけに、少々驚いたのは事実だ。

原因となった断層の先には、国内で唯一稼働中の川内原発があり、今回は特に事故には至らなかったが、どうしてまあそんなところに原発があるのか不思議でならない。再稼働が認められて以降、桜島や阿蘇山の噴火が続き、霧島周辺も不穏な動きがある。そして今回の大地震ときて、何かこう自然界を通して暗示的なものを感じざるを得ない。

ところで、福岡と大分に知り合いは何人かいるが、知人の一人が熊本に単身で転勤していたのをFacebookで知ってびっくり。遠い九州の出来事が急に身近なことと感じられてしまった。被害に遭われた方にはお見舞い申し上げたい。

20160415

今日は風が強くて参った。しかもまた冬型のような北風が吹き荒れたため、予定していた撮影は中止となった。風が強風のレベルだと、とてもではないが動画の撮影は無理である。

ということで今日の写真は数日前の小野子の桜。ここも今日の大風で桜吹雪となってしまっただろう。

カテゴリ:独り言, 花・植物|タグ:

ふと、機材の端っこにぶら下げている時計を見ると、おぼろげに記憶の片隅に残るあの時間であることに気づく。正確には少し過ぎてしまっていたが、あの時まだこの時間は揺れが続いていたはずだ。

20160311

いつまでも憶えていたい人、もう忘れてしまいたい人、消えてしまった景色、思い出せない景色、思い出される眺め、忘れ去られた時間、記憶に留まる時間、消し去りたい記憶。時は移ろいやすく、人の記憶は意志に関わりなくひっそりと薄れていく。

時は誰にも平等に流れるが、それは時に非常で強大だ。それに抗うのも人であれば、従うものまた人。人は記憶することで過去を慈しみ、未来を見つめ直す。人は忘れることで悲しみを乗り越え、未来へ旅立つことができる。

時の過ぎゆくまま、時の流れに身をまかせ、過去を振り返ろう。そして明日へ向かって歩き出そう。

カテゴリ:独り言

空き地

2016/2/23

我々の世代で近所の空き地といえば、藤子不二雄やちばてつやの世界観そのままに、三角ベースができる程度の広さがある草っぱらで、土管が3本積まれているのが定番である。

何故に土管が3本なのかといえば、空き地を管理する土建屋の資材調達の余りという見方もできるが、恐らく子供が登って腰掛けられる程度の高さで且つ安定した配置が期待できるという理由に他ならないだろう。

などという戯れ言を真面目に考察しても詮なきことではあるが、昔の空き地はそれが私有地であっても子供たちには共有財産的なところがあって、管理する側も出入りをむやみに制限するようなことはなかった。

長らく放置された空き地は小動物の宝庫である。特にバッタや蝶などはいたるところで採り放題だし、雑木林が隣接していれば、セミやカブトムシも期待できた。ウズラやヒバリもよく見かけたものだ。

まあそれも時代の流れでそんなことを言ってもいられなくなり、事故が起きれば管理者責任を問われるなど面倒なことになるのは必定、今や空き地は立看板と厳重な杭に囲まれ、足を踏み入れることは憚られるのが現実だったりするのである。

20160223

以前は宅地であったと思われる空き地で、重機がせわしなく地面を整地していた。「ご不便をお掛けします」の上っ面だけ腰の低い立看板の前では、昔と変わらずヒバリが春の準備に余念がない。

バブル期ほどではないにせよ、空き地がいつまでも空き地のままであることはなく、ヒバリがピーチクパーチク囀っていられるのも、ここは今年が最後かもしれない。

カテゴリ:独り言, |タグ:

人並みに

2016/2/17
20160217

こんな杉木立の脇に終日立っていたところ、目はショボショボするは、鼻水は垂れてくるは、くしゃみは出るはでもう大変。

ここ数年イヤな兆候が続いていて予感はあったものの、この歳になってとうとう人並み?に来たかと年貢の納め時のようだ。

早々に耳鼻科のお世話にならなくては..

カテゴリ:独り言