平地からはヒバリやウグイスの初鳴きが届いているが、小生が徘徊する山間地では、日の当たらない谷筋に入れば雪が残っているなどまだまだ冬が居座っている。
県南で南向きの落広林を徘徊するとよくある光景。新雪ならぬ落ち葉ラッセルを強いられ、音を立てたくないがちょっと無理。
谷筋の間道ではキツネの先客が。
昨日一昨日と日本列島から冬が去ったのではないかと思えるほどの暖かさだった。日中とは言え17℃とかこの季節の気温とは思えない。
我が家のぬこ様もちぐらから溶け出して床に腹ばいになっていたほどで、さすがにまだ冬毛をまとうけものには早すぎる春の気配であったろう。
かくいう小生もフリースを脱いでいた時間帯があったぐらいで、やはり急激に気温が上下すると恒温動物は数値以上の感覚を感じるということなのだろう。
ちょっと前までは暖かい日を選んでさえずっていたホオジロも、今週に入ってからは毎朝庭で一筆啓上と鳴くようになっている。
近年その数を減らしていると言われているカシラダカも、20年以上続けて我家の庭で越冬しているが、この暖かさに触れて少しぐぜっていた。
例年だと3月下旬ぐらいまで滞在しているが、どうだろう今年はちょっと早くに渡去するかもしれない。
今年は事前に言われていた通りスギ花粉の飛散量が多い。県南では小生程度の症状でも被膜でガードする系のスプレーで防御しておかないと、終日クシャミに悩まされることに。何しろやまびこの原理で山間でのクシャミは結構響くのである。
特に県南の天狗様観察ポイントは杉林の林縁付近が多いので、この季節の悩みのタネでもある。
と言いつつ早十数年経つのであるが、まあ世間で言うほどの酷い症状にまで進行してないのは助かっているのだが、アレルギーなのでこればかりはどう転ぶのか不透明である。
杉林の林縁にあるシカ除け柵の付近でジョウビタキが出たり入ったりしていた。
ひと頃のカメラ各社のAI被写体認識によるAF性能には一喜一憂したが、個人的にはここまで追いかけてピンを合わせてくれれば御の字である。
特にOM-1は当初は安定しない場面が目立ったが、Ver.1.3になって以降は実に安心していられる。上の2枚の場面でも、ファインダーに導入後は常にジョウビタキの目を追尾し続け、ピンも追いかけ続けていた。
特に2枚目など、OM-1に限らず以前のカメラのAF-Cなら間違いなく手前の白い看板にピンを持っていかれていたはずだ。
そろそろ周辺の積雪が無くなり始めており、動物たちの足跡という可視化された情報を追うのも難しくなってきている。
小生が引っ越すに当たり、生活に影響のない範囲で雪が積もることを条件で探して今の場所に住んでいるのも、そんなことが理由の一つだったりする。
足跡が消えるそれはつまり春が近いことでもある。
一昨日・昨日と2日続けて放射冷却で氷点下8℃まで下がったが、そろそろ冷え込みもラストスパート。
とは言えここまで下がると赤城高原から見渡す峰々は山焼けとなり、ビーナスベルトとモルゲンロートのダブルで空も山も赤く染まることになる。
ただこの日は日の出前からシジュウカラとホオジロがさえずっており、寒い中でも春の近さを感じさせる季節のたよりであった。
その昔、天狗様が抱卵に入る頃を見計らって毎年のように数週間ほど冬の道東に通っていた時期があった。
知床が世界自然遺産に登録されて以降はほとんど出掛けていないが、それでもオホーツクに流氷が流れ出すとそれなりに気になって、毎日に海氷情報を眺めている。
白い流氷原は内地に住む人には冬の景色だが、流氷が道東各地の海岸線に到達するのは春の知らせである。
多くの花火大会は夏の暑い盛りに行われるものだが、おらが村が村の花火は真冬の厳冬期に打ち上げる。
話題性狙い?というのはもちろん否定はしないが、村の有志の手によるイベントであるため、夏の農繁期の開催が難しく、概ねヒマになる冬ならなという意味が大きい、という話。
でも確かに話題性はあるかな。
ここ数年は村内で最も標高の高い広場で上げていたのだが、あいにくとその方向は隣家の防風林の陰になって今ひとつよく観えなかった。
それが今年から再び運動公園に会場が変わったため、仕事場の窓からよく観えるようになって、暖かい部屋の中でビール飲みながら鑑賞できるようになったのは良き。
子供が小さい頃は会場まで観に行ったこともあったが、ジジィに冬の夜の寒さは堪えるのでねw
同性婚の否定を無能検討使が言っているが、仮に認めてもそれで金が掛かるわけでもない。
むしろ当人たちが社会的に認知されれば、モチベーションが上がって仕事にもやりがいも出よう。さすれば税収も増えるとかそういうふうに物事を考えられんのかね。
確かに生物学上は子供はできないが、養子という考え方もある。それに中年で縁あって結婚しても子供は作らないのだから同じだぞ。
難しいことはよくわからないが、LGBTQを否定してもそれでその人たちの考え方が変わるわけでもなく、逆に人々の分断を図るだけで社会的にメリットがない。
人は社会性の高い生きものなのだから、置かれた社会の中でモチベーションを上げるような仕組みづくりをしないと、国の有り様というか社会コミュニティの未来は危うい。
薄明の刻を刻む赤城高原。