ヒルガオにマツヨイグサにツユクサ。何れも農村の路傍を彩る夏草達だ。明け方はめっきり涼しくなって秋の気配漂う赤城高原だが、まだまだ夏草たちの繁茂の夢は終わらない。
年別アーカイブ : 2017
路傍を彩る夏草
よく焼けました
昨日の夕焼けは凄かった。各SNSの状況を見ても、夕焼け写真が結構アップされているのが判る。
その時間、そのタイミングでカメラを持って良い景色の場所に立っていられたか、そんなことで結果は左右される良い例だ。
空が焼け始めた時は谷間を走っていたが、速攻で近くの見通しの良いポイントへ移動して撮影。吾妻川流域を西に見通す高台から、県境の四阿山方向を望む。
普段うろついている地域で、どこに行けばどんな眺めが望めるか、普段から情報を蓄積しておくことは重要だ。
写真を撮る上では運不運だけは如何ともしがたいが、置かれた状況を最大限活かすためには、日頃からの情報収集が大切なのである。
真を写す
夕陽映えの写真はどうやって撮った?正体は何?という問い合わせあり。タネを明かせば何ということはなく、夕立ち後に西日が差し込んで、レタス畑のマルチの水滴が乱反射していたということ。
真を写すと書いて写真だが、見せ方でそれは言葉通りでもあり、撮り方でまた言葉通りにはならないこともある。それが写真の面白さに他ならないということだね。
芒開く
今日の赤城高原
天候回復で半月ぶりに天狗3号を飛ばす。と言っても業務でなくあくまでトレーニングフライト。ある意味凶器が飛んでいるに等しいので、日頃から鍛錬は欠かせない。
それにしてもちょっと飛ばさないと勘が鈍るのは歳取ったせいかね。
我が赤城高原から上越国境を望む。機体の対地高度は30mほど。県境付近は昨日の大雨の影響でガスの中。残念ながら谷川連峰は拝めず。
日常の我がフィールドである某演習林越しに子持山(右手前)と榛名山(左奥)を望む。浅間山も薄っすらと見えている。
雲だけ見れば季節感は秋のそれ。
今日は久しぶりに猛暑とかで、その全国筆頭に前橋の名が上がっているのを聞きつつ関係ないねと思ったけど、よく考えたら午後からその前橋で仕事だった..
久しぶりに
夕陽映え
カワウソ発見で考えること
琉球大学がツシマヤマネコの調査中に、偶然カワウソの姿を映像に捉えたということで、にわかにニホンカワウソが脚光を浴びることとなった。
軍事用に毛皮目的で乱獲されたことと、国内の川辺事情の悪化..魚の減少と三面護岸工事の乱発..で生息域を奪われた形で絶滅種扱いになっているニホンカワウソ。
デジタルカメラになって以降、自動撮影装置の利用の敷居が下がり、日本中に調査目的でロボットカメラが設置されている現状で、これまで発見されていなかったことから、やはりニホンカワウソは絶滅していると考えて良いだろう。
件のカワウソも糞から採取したDNA鑑定ではユーラシアカワウソ..ニホンカワウソはその亜種の位置付け..と判断されているようで、それであればニュースでも言われている通り、隣接する朝鮮半島から移入してきたと考えるのが自然だろう。
ただ、対馬から朝鮮半島が見えているとは言っても、海峡の幅は50kmほどあるので、安藤先生の考えでも自力での移動は難しいとのこと。偶然海辺の漁船をねぐらにしていた個体が沖合で海に入って逃げ、対馬側に泳ぎ渡ってきたというのが有り得そうなシチュエーションだが、それとて雌雄2個体いるらしいという話からすると、出来過ぎにも聞こえてくる。
さて、この後都合よく対馬の個体が九州に渡ってくることは考えられないので、発見者含め関係機関がどういった動きを見せるかは見守るしかないが、これをもってニホンカワウソが復活した、だから各地に移入しようなどとはゆめゆめ思わないことを願いたい。
種そのものも大事だが、そもそも絶滅した理由を改善または除去しない限り、再び子孫を残せず絶滅してしまうのは目に見ている。カワウで相当漁業被害を被っている漁協など、理解なくカワウソを離せば反発するのは分かりきった話だからね。
オオカミ移入の話と同様、今までそこにいなかった生きものの新たな出現というのは、人が考えている以上にインパクトのある話なのである。この狭い日本列島、人跡未踏の地などどこにもない。いずれどうあっても人間の生活圏に深く関わってくるのだ。
余談だが、某首相がオバマ米元大統領に送ったことで有名になった獺祭の意味がカワウソ..和名では「獺」の一字を当てる..から命名されているとは知らなかった。
最後にその姿を見られているのが四国の高知ということもあって、西日本では近代まで身近な生きものだったのだろう。
今日は久しぶりに日差しが戻った。レタスもキャベツも、この夏の日照不足でその生育に影響が出ており、それがそのまま市場価格の高騰につながっている。東北の米も心配だしね。
フジに始まりフジに終わる?
うちの親、特に親父の方は旅行好きであった。正確には車の運転が好きで、それが高じて観光バスの運転手をやっていたほど。
50〜60年代のまだマイカーブーム前、当時の職業としては観光バスの運転手は花形だったようだ。かなり日本全国津々浦々を長距離勤務して荒稼ぎして、家を2軒建てながら脱サラして食料品店を始めた経歴がある。
盆と正月には店を3〜4日閉めて旅行に行くのが恒例であったのだが、当時の我が家にカメラが無かったため、そのほとんどの記録映像が残されていない。そしてそれは同時に拙者個人の子供の頃の写真がほとんど残っていないことの理由でもある。
まあいつの時代も写真好きのオヤジが隣近所にはいたので、意外に節目節目の写真はあるのだが、家にカメラが無かったため旅行に行った際の写真はないのだ。
ヨンメリスカイランを筆頭に、2年も経たずに車を乗り継ぎ、常に商売用の車を含め2台はあったので、いくら当時高いとは言ってもカメラの1台も買えないことはなかったと思われ、恐らく思い出を記録に残すという概念を持ち合わせてなかったのだろう。
そんな状況にあったものの、ヨンメリを買った頃に我が家に初めてやって来たカメラが富士フイルムのフジカデートであった。
写真は東京ミッドタウンにあるフジフイルムスクエアの展示で見つけたもの。昭和50年とあるので、うちに来た時期と一致している。
拙者もこの頃はまったく写真に興味がなかったので、果たして何本ぐらいのロールを通したか定かではないが、結果だけ見るとやはりその頃の写真が沢山残っているわけではないので、何らかの付き合いとかそんな理由で買っただけだったのかもしれない。
高校時代以降、写真撮影を趣味にしてからカメラはキヤノン一筋..でもなく仕事で一時期ニコンも併用していたけどw..であったが、人生に登場した最初のカメラは富士フイルム製だったわけである。
それが図らずも再び富士フイルム製のカメラがメインとなってきているのだから、人生とはなかなかに面白いものだと思わざるをえない。もちろんC社の使用をやめたわけではないが、今のC社に率先して貢ぐ気はまったく起きないのも事実だ。
さて、人生を終える頃、果たして手元に残っているのはどこメーカーのカメラだろうか。まずは実家に行って件のフジカデートでも探してこよう。