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誰が呼んだか四万ブルー。昔はそんな呼び名はなかったが、近年どこぞの旅行会社が宣伝のためにキャッチで使いだしたのが始まりらしい。

上信越国境を源流とし、奥四万湖から四万湖を経由して吾妻川まで流れ下る四万川では、ところどころ川の淀みや深い淵の青味がかった色合いが特徴的である。特に奥四万湖は光の加減で様々な見え方をするので、近頃は観光客に人気がある。

そもそもなぜ独特の青さなのか。難しい話はよくわからないが、火山性の土壌に含まれるアロフェン..鉱物の結晶は確かに青い..という鉱物の微粒子に日光が反射するとか何とか言われているが、ネットでそうまことしやかに言われているだけで、今のところ詳しくはよく判ってないようだ。

四万周辺に火山があるわけではないが、天然温泉としてはなかなか極上の湯が湧き出す地なので、周辺土壌にそんなものが含まれていると言われれば誰も疑うまい。が、今のところは神秘の四万ブルーで押し通したいという本音も、関係者の間には見え隠れしているかも。

ちなみにネットで散見する写真の水の青さは、インスタばえの影響でかなり盛ってあるので要注意。

FUJIFILM X-T2 / XF50-140mm F2.8 R LM OIS WR / Velvia
DJI Mavic Pro(6枚目)

グンマーとしては、上毛かるたの読み札中で最凶の呼び声高いババ札、「よ:世のちり洗う四万温泉」のほうがしっくり来るんだけどねw

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今どきの若い人は、皇居が徳川家の居城であった江戸城の跡地であるということ知らないらしい。

昨年の暮れだったか、20代の若いエンジニアと話をしていた驚いた。まあ何れは日本が太平洋戦争をおっ始めたことすら忘れてしまう時が来るのだろう。歴史が繰り返されるというのは、古い記憶が薄れていくことに他ならないからね。

そしてその江戸城であるが、本丸天守閣は家光の時代に築かれた寛永のものが最後であって、それが明暦3年(1657年)のいわゆる明暦の大火で焼失して以来、350年以上再建されていない、ということも意外に知られていない。

よく時代劇の舞台になるのは元禄以降の江戸中期が多いのだが、例えば暴れん坊将軍こと吉宗が、池の鯉に餌を撒きながら家来と話をしているようなシーンで、背景に白い天守閣..姫路城を代役として映していることが多いが、そもそも江戸城は黒壁だしね..が映っているのは明らかな間違いなのだ。幕末もので江戸城無血開城のシンボルとして、勝海舟と西郷隆盛が天守閣で向き合うシーン、あれもあり得ない話である。まあ作り話にそう目くじら立てることもないのだが、歴史好きとしてはやはり史実にある程度は沿って欲しいと思うのである。

正月に、江戸の初期の天文暦学者であった渋川春海を描いた映画、天地明察(制作は角川、原作は冲方丁)を観た。観測により古い暦を廃して新しい暦を作ったという話で、そこには上毛かるたに「わ:和算の大家関孝和」と読まれている藤岡出身の数学者、関孝和も登場するなど興味を引くところがあったが、一番惹かれたのは江戸城のシーン。インサートカットとしてほんのチラッとしか映らないのだが、史実に忠実に天守閣は描かれず、焦げ跡残る天守台のみが表現されていた。話の舞台は明暦の大火の後なので当然といえば当然なのだが、角川もよく判っているではないかと思った次第だ。

そう言えば、2020年の東京五輪までに江戸城天守閣を再建しようという動きがあるらしい。総工費約350億円というから相当な費用が必要となるが、例のドタバタ競技場に比べればかわいいものである。観光シンボルとしては言うに及ばず、再建には国産の木材を使うという話なので、不振を極める国内林業への特需も期待できよう。何より、日本伝統の木材建築技術を世界に知らしめる、いい機会ではないだろうか。

20160106

まるで火事でもあったのかというほどの朝焼け。三が日は荒れもせずによく晴れたが、今週末辺りから冬型に戻るようだ。

森が育む水

2015/11/22

船津伝次平は日本の近代農業の祖であると先日記事にした。

農地の規模を広げ、安定的に作物を生産するには水の供給が欠かせないが、伝次平はそのための水源林保全の重要性に早くから気づき、近隣の住民らと赤城山に植林を施したことでも知られている。

当時の主な燃料は薪であり、恐らく赤城山の山麓もかなり木が伐られ、いわゆる禿山状態であったことは容易に想像がつく。計画的且つ組織的に薪炭林を育てていれば別だが、実際は皆がてんでに薪を伐り出していた時代背景もあってか、赤城山に端を発する河川の水量が細っていたのを見知って、森が水瓶であるという因果関係に気付いたのは流石である。

20151122

伝次平の故郷は上野国原之郷の辺りで、現在で言えば前橋市富士見町(旧富士見村)である。氏の墓所より少し標高を上げると、我が赤城高原同様に農耕地が広がり、背景には赤城山本体もよく見通せる。

約150年ほど前、明治維新の前後に伝次平もこの辺りを訪れ、赤城の麓の大地を耕したのかと想うと、歴史好きとしては感慨深いものがある。

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視聴率はもうはもう目を覆わんばかりの大河ドラマ「花燃ゆ」。八重の桜同様、明治維新以降の話は間違いなく盛り下がると最初から言われていたが、ものの見事にその通りになった。朝ドラの「あさが来た」のほうが余程大河らしいと評判である。

申し訳ないが主人公のオネーチャンにはまったく興味も共感もわかない上に、どっちが主人公か判らない設定の初代県知事楫取素彦も、前橋市民には賛辞あれど、高崎出身者には裏切り者扱い..県庁は本来高崎に置かれるはずだったのを楫取素彦が反故にして前橋にしたため..されているので、地元が舞台であってもほとんど話題に上らなかった。

が、それがここに来て俄然盛り上がりを見せている..というほどの勢いもないが(苦笑)..のは、歴史上のとある人物の登場に端を発している。

その歴史上の人物とは、日本の近代農業の始祖である日本三老農の一人「船津伝次平」である。

???という方がいても何ら不思議はないがまずはそこは置いておいて、船津伝次平とは群馬県民なら誰でも知っている郷土を読んだ上毛かるたの読み札、「ろ:老農船津伝次平」その人であり、県民なら子供の頃から名前だけは知っているが、それ誰?の代表格筆頭であり、取り札の中でも新島襄や田山花袋、新田義貞などと並ぶオヤジコレクション..判る人には判るローカルネタね..の一角をなすのが船津伝次平なのだ。

群馬県内どこの地区でも、上毛かるたの県大会出場を目指し、正月を前に夜な夜な公民館などに集まってかるたの練習に励むのが群馬の子供の風習であり、それは今も脈々と受け継がれている。何しろ県大会で優勝することイコールそれは真のワールドチャンピオンに他ならないからね(笑)。

そんなかるた上、もとい歴史上の伝説の御仁が登場したものだから、仕事で会う人会う人、伝次平の話題で盛り上がるのは必定。さらに当然のように話は伝次平から上毛かるたへと流れて盛り上がっていくため、結局大河ドラマの話はどこかへ飛んでしまうのがお決まりとは言え(笑)、そういう意味ではここにきて大河さまさまと言えなくもないか?

20151121

伝次平は若くして地元の名士となり、かの大久保利通卿に請われ東京大学農学部にて講師を勤めた後、農商務省に入省。自身の考案した船津農法を全国に広めた功が認められ、生前に藍綬褒章を受賞。没後には従五位に列せられている。

ちなみに写真に写っているかるたでは「め」になっているが、これは富士見村独自のかるたである。群馬県民はつくづくかるたが好きな県民性のようだ..

余談だが、上毛かるたと言えば、私自身、アラスカのデナリ国立公園内の最奥にあるワンダーレイク湖畔にて、バックカントリーでばったり出会った日本人に、群馬出身であると判った途端いきなり「に:日本で最初の富岡製糸」と声をかけられた経験がある。世界は広いのか狭いのか、どう実感して良いのかよく判らなかった瞬間だ(笑)。

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裾野は長し

2013/11/21

赤城山は最高峰の黒檜山(1828m)を筆頭に、長七郎山、地蔵岳、荒山、鍋割山、鈴ヶ岳などから形成される複成火山である。2〜4万年前の噴火で、山体中央のピークが陥没してカルデラ湖となっため、現存する山容は外輪山そのものであるが、上毛かるたに「す:裾野は長し赤城山」と詠まれことからも判る通り、その広大な裾野に往時の面影を見ることができる。

もし中央のピークが存在していれば、間違いなく富士山より高い山だったと群馬県人は勝手に信じて疑わないが(笑)、裾野の広さでは富士山に次ぐのは事実らしいので、まあ田舎者の戯言と思って聞き流してもらえればとも思う。

20131121

抜けるような青はまさに冬の空だ。これから花粉やら黄砂やらが飛び始める2月まで、ヘイズの影響も少なく、望遠で遠景を切り撮るにはいい季節の到来である。

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燃える妙義

2013/11/8

妙義山は山腹から県道(旧有料道路)沿いにかけてがちょうど紅葉の見頃であった。上毛かるたに「も:もみじに映える妙義山」と詠まれていることからも判る通り、露岩した奇岩に根を張るモミジやカエデの赤が遠目にもよく目立つ。

20131108

上毛三山を成す赤城や榛名と同様に、妙義もそのものズバリの山名を持つピークはない。妙義山はあくまで山系全体を指す名称である。妙義神社のあるもっとも有名な山体(写真)は白雲山と呼ばれ、それ自体も天狗岳・相馬岳という2つのピークからなる。

ちなみに意外に知られていないが、妙義山は列記とした火山活動によってできた山である。赤城や榛名に比べてもかなり古くに形成(約700万年前)されたことが判っており、長年の風化侵食作用によって、現在よく知られた奇峰奇岩となったようだ。

だいぶ古い記事だが、私と妙義の関わりを書いた記事を発掘。–> ああ青春の妙義山

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