ヘイ、ベア!
南西アラスカにあるカトマイNP。ブルックス滝にサケを求めてグリズリーが集まることで知られ、彼の地こそはグリズリー王国の中枢であり、ここを訪れる人の目当ては例外なくグリズリーである。つまりそれは、わざわざクマのテリトリーに自ずから入っていくことを意味する。
カトマイは事前にパーミットを取得して、限られた期間だけ..当時は最大で6日間だった..入山できる仕組みになっている。
まず現地へのアプローチからして、内地から道路が一切通じていないため飛行機頼みである。フロート機でナクネック湖に到着してまずはキャンプスペースを探す..ハードハウスのコテージもあるが貧乏カメラマンには端から選択の余地なし..のだが、湖岸近くはすでに埋まっていて、キャンプ場の周辺部しか空いてない。
最初に幕営したスペースは湖岸から離れていたが、他のキャンパーから隔離されて静かでよいと喜び勇んだものの、これは翌朝大いなる失敗であることに気づく・・
クマが橋を渡る時はクマ優先。カトマイでは人はクマより地位は低い。
クマが標識を認識できるかという問題はさておき、ベアカントリーで人が歩いて良いのは高架木道だけ。常にヘイ、ベア!の掛け声は忘れずに。
翌朝、と言っても南西アラスカでさえも白夜..これは7月の話である..の影響は大きく、一晩中薄ぼんやりと明るく、寝たかどうか定かではない感覚で明らかに寝不足である。
薄っすらと光がテントの薄い生地を通して差し込み、寝袋にくるまって朝飯どうしようかグダグダと逡巡していると、テントの足元の方向から何かがガサガサと歩いてくる音がするではないか。人か?いやここはキャンプ場の一番北の端であったはず。森の向こうはブッシュの原野で人など分け入る理由はない。それよりここでの最初の心情を正確に言うなら、人であって欲しいというところではなかったろうか。
フー、フーと言った感じの鼻息混じりで、その何かはブッシュから出てくる..この辺は見えてないので想像の世界ね..と、パキパキと小枝を踏みながら、我がキャンプサイトに足を踏み入れてきた。
もうここでその何かがグリズリー以外の何かであるとはノーテンキにも考えづらくなっており、もしかしたら昨日の夕方見かけたムースかも..世界最大のシカなのでそれはそれは接近遭遇はしたくないけど..という淡い期待も、逆光気味にテント生地の向こう側、恐らくわずか1m半ぐらいの位置に巨大な影が浮かび上がったことで脆くも消し飛び、身動ぎすることなく音無しの構えで臨戦態勢。
ここでまた止せば良いのに、好奇心に駆られて限りなくスローでテントのジッパーを下ろしつつ、片手にリコーGRを掴んで隙間からそっと覗いてみると、3mほど離れたところで立ち止まっている巨大なクマを確認。どうみてもこちらが寝ているテント..モスのアウトランドというシェルター型の一人用テント..の倍はある巨大さで、体重は優に400kgはありそうである。
こちらの驚きと恐怖を感じとったのか、面倒くさそうにこちらを振り向くクマだが、ここで目が合うとこちらがあちらの朝飯になること請け合いなので、刹那に視線を隙間から外すことに成功。その後どのくらいテント内でフリーズしていたか記憶にないが、クマが去っていった方向からフライパンやコッヘルを叩いて威嚇するキャンパーたちの喧騒が届き、取り敢えず自分は助かったことを実感したのであった。
当時愛用していたモスのアウトランド。このすぐ右脇奥からそのクマは現れた。
キャンプ場は毎日キャンパーが入れ替わるので、お昼頃には一時的に空くことに気が付き、ブルックス滝での撮影から一旦引き返して、とっとと湖岸近くのキャンプサイトに移ったのは言うまでもない。たとえそれがブロンドのフランス人カップルの隣でやたらイチャイチャ賑やかだと判っていても、襲うときに多少でもクマが迷ってくれることを期待して(笑)、我慢することにしたのである。
今までカトマイNPでどれほどの事故が発生しているかは不明だが、夏のサケが大量に遡上しているシーズンに、好んで人を襲う個体はいない。人に手を出せば痛い目に遭うことくらいは連中も判っており、だから逆に悠々とキャンプ場の中を通って湖岸に出て行くという大胆な行動に出るのだろう。
ただ、その後例のキャンプ場の周囲には電気柵が設置されたようである。何かトラブルがあったことは想像に難くないが、それは人を守るというよりは、ベアカントリーで無益にクマとの諍いを減らすことの意味合いのほうが大きように思われる。一度人を襲うことを覚えたクマは、自由の国アメリカであったとしても、捕殺も選択肢に排除されるのは日本と同じだからだ。
ある朝、ナクネック湖の湖岸で顔を洗おうと、ふと足元の浜に視線を落とすと、つい今しがた通ったばかりと思われる親子グマの足跡が目に入った。
この時期、雄グマたちはブルックス滝周辺に集まっているので、逆に子連れの雌グマは滝から離れた場所で餌を探している。サケが手に入るとは言っても、子グマは常に雄グマに狙われる存在に変わりはないからだ。